”ユダヤ人にうまれたから”
”きっかけはそれだけだった”
この記事では、絵本「ホロコーストを生き抜いた6人の子どもたち」の内容を変更せずに、僕が言葉えらびを変え、心情を追加してオリジナルストーリーを書きました。
ホロコーストに関連するアウシュビッツ強制収容所の世界遺産の価値をすぐに知りたい人はこちら>>
「絵本:ホロコーストを生き抜いた6人の子どもたち」をオリジナルストーリーにしたら?

写真:アウシュビッツへの線路
6人のお話のうち、ハインツとトルーデの二人のお話をオリジナルストーリーにしました。
ドイツにて:ハインツの物語

写真:ドイツ・バイエルンのダッハウ強制収容所
ある日、16歳の僕は退学をさせられた。
仲のよかった友達からは指をさされ、ニュルンベルクの町で、僕と僕の家族は牢屋にいれられたようだ。
2年を耐え、僕はハンブルグの港町で暮らすようになったが、いつも心はニュルンベルクの両親と同じ。
そんな日が続いたある朝、電話越しの母さんはいった。
「とうさんは出かけたわよ」
これは逮捕されたという合言葉だった
そして母さんは続けた。
「今すぐ着替えて、散歩にでかけなさい」
母さんは、今すぐ逃げなさいといっている。
とうさんは数週間ののち、廃人となって帰ってきた。
それでも運が良い方だ。その4日後に戦争がはじまったのだから。
チェコスロバキアにて:トルーデの物語

写真:プラハのユダヤ人地区
父さんと母さんは私を安全なところに逃がそうとした。
通り沿いの道で、私は急いで詰めた荷物をもって両親と向かい合っている。
タクシーにのったことだけは覚えているけど、ちゃんとお別れをいえたかな?
ぎゅって抱きしめてくれた母さんに笑顔をつくれたかな?
お別れのキスはしょっぱくなかったかな?
なにも覚えてないよ。
遠く離れたイギリスの地で、英語がはなせず、食べ物もみたことがなくて、どうしたらいいのかわからない。
私、父さんと母さんに会いたい……
1939年の3月から15回か20回かわからないけど、次々とあたらしい家族のもとに送られて、わたしは涙を流し続けた。
いつも支えてくれた父さんは、1942年の5月8日ころにガス室に入ったみたい。
最後に抱きしめてくれた母さんは、ずっとずっと探したけれどわからない。
母さんのぬくもりは、もう感じることはできないのかな?
戦後80年たった今も、私は母さんを探し続けている。
世界遺産「アウシュビッツ強制収容所」と負の遺産

写真:ベルリンのホロコースト記念碑
正式名「アウシュビッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940⁻1945)は文化遺産として登録されています。
保有国:ポーランド共和国
登録年:1979年
登録基準:ⅵのみ
ポーランド南部にある街オフェンシムの郊外にアウシュビッツ強制収容所がある。
ナチス・ドイツのユダヤ人蔑視、劣化、絶滅政策は、第三国が広めた人種差別的、反ユダヤ守備的なイデオロギーに根差していた。それは、ナチスが考える劣等民族をドイツ本国内に入れないようにするため。
終戦時に証拠隠滅を図ったが、ソ連軍の侵攻が早く破壊されずに残っている。
1947年、傷がいえないまま、ポーランド国会は強制収容所の敷地と建造物の永久保存を決定し、博物館として公開することにしました。
世界にとって非常に重要な記憶の場所である。
世界遺産条約には正式に記載はありませんが、日本の原爆ドームと同様に「負の遺産」の代表的な世界遺産です。
現代にいきる僕たちが一度は勉強した方がよい遺産のひとつです。
次に読む記事は同じ絵本つながりでセント・キルダ諸島のお話はいかがですか?



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